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中神琴渓さん・2
■中神琴溪
 独学によって古方派の医学を修め、疾医の道に徹してよく大医の域に達した琴溪は、近江が生んだ特異な名医であった。琴溪は名は孚、通称右内、字を以隣といい、琴溪と号した。寛保四年(一七四四)近江国栗太群南山田村の真宗西念寺の二男として生まれた。幼い頃膳所の糀屋某の養子になったが、のち大津の医家中神氏の家を嗣いで医師となった。三十余歳の折、六角重任の『古方便覧』をみて感激し、それより発奮して吉益東洞の著書を熟読し、東洞の思想に大いに共鳴したといわれている。
 はじめ大津に近い長等山の麓に住み、この間、大津の宿場女郎の梅毒治療に軽粉をしばしば用いて治験をあげた。寛政三年(一七九一)四十八歳の時、京都に移って医業を開き、大いに繁昌した。その後江戸に遊び、また諾国を遊歴したのち、近江の田上に隠栖し、また南山城、宇治付近の有王村に移って桑や茶を植えて楽しんだということである。最後に郷里山田村に帰り、天保六年(一八三五、一説に天保四年)九十二歳で死去した。
 琴溪は、医術を修めるには師匠より直接の口伝を受けるべきで、書物でこれを学ぶことは不可であるとした。したがって琴溪自身も自ら書物を著わすことはなかったが、門人が師匠の講義を筆記したと思われる書物がいくつかある。現在琴溪の著書とされているものは『生生堂医譚』『生生堂雑記』『生生堂治験』『生生堂養生論』などがある。
 琴溪が医学に対していだいていた根本理念は、「医術は実際に役立つものでなければならない。それには定則に拘泥せず、常に臨機応変の治療をしなければならない。そのためには従来の学説、すなわち規則を破らねばならない」とした。そして、琴溪が門人に教えた第一の点は「事実を尚び、実学を学べ」ということであった。「医学をするのは何の為ぞ、疾を癒やすこそ肝要なるべけれ」のこの一語こそ、琴溪にとっての初志でもあり、終局の目的でもあった。門人の中で後世に名を残したのは、著書に『吐方論』のある喜多村良宅がいる。(参考・山田光胤『自由の医人中神琴溪』)

私の尊敬し目標としている江戸時代の名医 中神琴渓さんの口訣です。 

・どんなりっぱな学問をこしらえても、実際に病人の役に立たなければ意味がない。

・薬をまず自分の身体で試し、実際に効果のあるものを取り、日夜たえまなく心を用いること。真剣に心を用いたならば、医道の真髄を知ることは決して難しいことではない。

・どんな道でも学んで得ようとするならば、それぞれの道の要点を知らなければいけない。医の道は病を治すのが要点になる。実際に効果の明らかなものだけを認めること。
     



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中神琴渓さん
文政年間の京都の医界で名医として知られた中神琴渓は、近江国山田村の貧農の家に生まれたが、独学奮励して医者になった人物である。 彼には次のような「死を予知する」ということに関連した逸話がある。三十を過ぎたある日、いつものように野菜の行商で大津まで出て、ある髪結床に作物を買ってもらい、そこで一休みしていた時のことである。 床屋の親方が妙なことを口にした。先程帰った客の老人は気の毒だが近いうちに死ぬだろうと言うのである。それを聞いて半信半疑でそれとなく気に止めていたところ、はたしてその老人は幾日かして本当に死んだ。 琴渓は驚いて、なぜ予知できたのかしつこく親方に尋ねるとその理由を話してくれた。「これまで何千人もの髪を結ってきたが、死が近づくと決まって代月のところに証が現れるのが分かるようになっただけのことだ」と。 琴渓はこれに大いに感じた。髪結床の親方さえこれだけのことが分かるのである。自分も医者となりその道を極めれば、人の生死を予見できるようになると。一大決心をした琴渓は医学書を漁り、その中でも特に六角重任著・吉益東洞閲『古方便覧』二巻を精読・研究し、ついに四十九歳のとき京に出て開業したという。 これは下で紹介している私の尊敬している江戸時代の名医「中神琴渓」さんの逸話です。私は何百冊の漢方専門書を読みましたが、琴渓さんが弟子に話したことをまとめた本が一番だと思いました。感動して三冊買ってしまいました。私の宝物の一つです。




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